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前橋地方裁判所 平成2年(わ)190号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中八〇日を右刑に算入する。

この裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。

本件公訴事実中、Bに対する殺人未遂の点については、被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  フィリピンから本邦に渡来し、昭和六三年八月ころから群馬県佐波郡東村《番地省略》所在の甲野塗装工業所に勤務してエンジン・カバーの組立工として稼働し、同所所在の同工業所従業員寮の二階に居住しているものであるが、平成二年五月一二日午前二時過ぎころ、同じく右従業員寮の二階に居住するフィリピン人の同僚CことDの居室において、同室のベッドの入口近くに腰掛け、同ベッド上に足を伸ばした格好で座った同人と雑談していたところ、同年一、二月ころ同人と一緒に行った近くのスナック「乙山」で喧嘩したことのあるパキスタン人のA(当時二七年)が右喧嘩の仕返しのため、仲間のBら四名のパキスタン人とともに右居室前入口付近に押しかけ、AとBが突然同居室入口の戸を開けて日本語でフィリピン人であることを確認する趣旨の言葉を発したりして同居室内に侵入して来たので、Aが仲間と一緒に右喧嘩の仕返しに来たものと思い、立ち上がったところ、Bからいきなり左顔面を力一杯殴打され、その場の床に四つん這いに倒れ、更に、背後から何者か(Aの可能性が強い。)に後頭部を固いもので殴打されたため、身の危険を感じるとともに憤激し、同居室と襖で仕切られた隣室の自室のところまで這って行き、右襖を開けて自室のたんすの上に置いてあった刃体の長さ約一〇・五センチメートルのラシャ鋏一丁(平成二年押第四三号の1)を取り出して、右ラシャ鋏でBの背部を突き刺すなどして同人と同居室前入口付近の廊下にいたその仲間の合計四人のパキスタン人を撃退し、直ぐさま、同僚のDのことが気になって後ろを振り返ったところ、背後から同人に左手を捩上げられて少し前屈みの格好になっていたAを認め、同人を殺害しようと決意し、左腕を額の前に挙げた形の防御姿勢を取りながら、やや前屈みの格好で右手に持っていた右ラシャ鋏で同人の左上腹部、左胸部及び頸部付近を三回程続けざまに突き刺し、Dの制止により、一旦はその場から離れ、同従業員寮二階の廊下から階段に通じる格好になっている隣室八畳間付近までBらの様子を見に行って戻った際、左目の上から出血していることに気付いて、再び激昂し、同居室の前記ベッド上に顔面部を左横向きにしたほぼ仰向けの姿勢で倒れたまま全く動かないAの右頸部を逆手に持った右ラシャ鋏で二回程突き刺し、よって、その場で、同人を左胸部の刺創に基づく心臓刺創による心嚢タンボナーデにより死亡させて殺害し、

第二  フィリピン国の国籍を有する外国人で、同国政府発行の旅券を所持するものであるが、その旅券には在留期間が昭和六三年八月三日までと記載されていたにもかかわらず、同日までに本邦から出国せず、平成二年五月一一日まで前記甲野塗装工業所従業員寮等に居住し、もって、旅券に記載された在留期間を経過して本邦に残留し

たものである。

(証拠の標目)《省略》

(一部無罪の理由及び弁護人の主張に対する判断)

一  一部無罪の理由

1  Bに対する殺人未遂の本件公訴事実の要旨は、「被告人は、平成二年五月一二日午前二時過ぎころ、群馬県佐波郡東村《番地省略》甲野塗装工業所従業員寮二階のD方居室で同人と雑談中、A(当二二年)らが同室内に無断で侵入し、被告人の顔面及び頭部を手拳等で殴打したことに激昂し、咄嗟に右両名を殺害しようと決意し、隣接する被告人方居室からラシャ鋏を持ち出し、右D方居室内において、逃走しようとするBの背後から、その背部を右鋏で突き刺したが、同人が同所から逃走したため、同人に加療約二週間を要する背部挫傷(刺創)の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。」というにあり、弁護人は、被告人の右殺人未遂の所為は正当防衛ないし過剰防衛に該当する旨主張する。

2  前掲の各証拠を含む関係各証拠によれば、被告人の右殺人未遂の所為に関し、次の事実が認められる。

(一) 判示第一の事実のとおり、被告人は、フィリピンから本邦に渡来し、昭和六三年八月ころから群馬県佐波郡東村《番地省略》所在の甲野塗装工業所に勤務してエンジン・カバーの組立工として稼働し、同所所在の同工業所従業員寮の二階に居住していたが、平成二年五月一二日午前二時過ぎころ、同じく同従業員寮の二階に居住する同僚のフィリピン人であるDの居室(四畳半、約二・七メートル四方)において、同居室のベッドの入口近くに腰掛け、同ベッド上に足を伸ばした格好で座った同人と雑談していたところ、同年一、二月ころ同人と一緒に行った近くのスナック「丙川」で喧嘩したことのあるAがその喧嘩の仕返しのため、棒のようなものを持ち、仲間のBら四名のパキスタン人(うち二名も箒やモップを折って棒状にした長さ約一メートル程のモップの柄の部分をそれぞれ所持)とともに右居室前入口付近に押しかけ、AとBが突然同居室入口の戸を開けて日本語でフィリピン人であることを確認する趣旨の言葉を発したりしたので、Aが仲間と一緒に右喧嘩の仕返しに来たものと思った被告人が攻撃に備えて立ち上がったところ、同居室内に侵入して来たBからいきなり左顔面を力一杯殴打され、その場の床に四つん這いに倒れたところを、更に、背後から何者か(Aの可能性が強い。)に後頭部を固いもので殴打されたため、身の危険を感じるとともに強く憤激し、同居室と襖で仕切られた自室(隣室)のたんすの上に刃体の長さ約一〇・五センチメートルのラシャ鋏(平成二年押第四三号の1)を置いてあるのを思い出し、これで襲ってきたパキスタン人たちを殺してやろうと考え、右襖付近まで這って行って立ち上がり、右襖を開けて右ラシャ鋏を取り出し、折から手拳で殴打して来たBに反撃するため護身用にベッドの側に置いておいた鉄パイプを取り出したDが同鉄パイプでBの頭部を殴打し、そのため、Dに組み付いて取っ組み合ったりして同人と争い状態にあったBの姿が目に止まり、まず、同人を殺害しようと決意し、右手に持った右ラシャ鋏を同人目がけて右大腿部付近から上に向けて突き出したところ、鋏が自分のズボンに引っ掛かってしまい、同人を突き刺すことに失敗した。そのころ、前記のモップの柄を持ったパキスタン人のEもBに加勢してDに対する攻撃に加わり、同モップの柄で同人の頭部を殴打する等し、一方、Bは、Dとの争い状態から離脱し、これに入れ替わるような形でAがDに挑みかかり、同人の髪の毛を引っ張ったり、その肩や頭部を殴打したりした。

(二) 同人との争い状態から離脱して被告人に背中を向けた格好で同居室入口から廊下に出ようとしていたBの後ろの姿を見た被告人は、Bが自分の持ち出した右ラシャ鋏を見て逃げ出したものと考え、左腕を額の前に挙げた格好の防御姿勢を取りながら同人を追いかけ、まさに入口から廊下に出ようとしていた同人の背後から、「殺すぞ。」といった趣旨の言葉を発しながら、力を込めて右ラシャ鋏を突き出し、この様子を目撃した同人の仲間のFがBを助けようとしてその腕を持って引っ張ったが、間に合わず、結局、被告人が右ラシャ鋏でBの背部を突き刺し、同人に対して加療約二週間を要する背部挫傷(刺創)の傷害を負わせ、そのため、同人は、その場にうつ伏せに倒れかかった。

(三) なおも右ラシャ鋏を持って自分らに掛かって来ようとしている被告人を見た右Gは、同じく箒を持って廊下に来ていた仲間のHから箒を取り、これを左右に振って被告人が接近するのを防ぎながら、右のEやHとともにBの肩を持ったりして四人でその場から階段の方に逃れて階下に降りたが、Aが戻って来なかったので、助けに行こうと言う者もいたものの、舞い戻ると、刃物を持った被告人に殺されるかも知れないと考え、結局、同居室には戻らず、Aを残したまま付近に停めて置いた自動車に乗ってその場を離れた。

3  以上の事実関係によると、ラシャ鋏でBの背部を突き刺した被告人の右所為は、一方において、深夜、喧嘩の仕返しのために複数で人の住居に侵入して来たBらに憤激して積極的な殺意をもってなされた面もあるが、他方、身の危険を感じて左腕を額の前に挙げた格好の防御姿勢を取りながらなされた防衛行為としての面もあり、被告人がBの背部をラシャ鋏で突き刺した際には、同居室内では、同居室の居住者であるDと侵入者の一人であるAが抗争している最中で、同居室前の廊下には、同人に加勢しようとして来て箒やモップの柄をもった同人の仲間が三人もいて、そのうち、モップの柄を持ったEは、前記認定のとおり、Dの頭部をモップの柄で殴打したりしたこともある当時のその場の状況等からすると、Bに対する被告人の右突刺行為は、Bが同居室から廊下に出ようとしていた際になされたものであることを考慮に入れても、同人を含む同居室への侵入者を排斥して被告人及び同室の居住者のDの身体に対する現在の危険を排除するためになされたものというべきであり、その防衛の程度も、被告人の所為が被告人に背を向けて同室の入口から室外に出ようとしていたBの背後からその背部を刃体の長さ約一〇・五センチメートルのラシャ鋏で突き刺したものではあるが、前記のとおり、当時、同居室内ではその居住者のDが侵入者の一人であるAと抗争しており、片や同居室前の廊下では箒やモップの柄を持った者もいる侵入者の仲間が三人も蝟集していて、そのうちの一人は、現に被告人の右所為の直前にDに対する攻撃に加わっていたところであって、客観的に見て同人らが再度攻撃して来る可能性も否定し得ない状況であったことを考慮すると、社会通念に照らし、法秩序全体の見地から見て防衛行為としての相当性を未だ逸脱していないというべきで、被告人のBに対する右所為は、盗犯等の防止及び処分に関する法律一条一項三号の正当防衛行為に該当し、結局、違法性を阻却して罪とならないものといわなければならない。

4  もっとも、本件証拠中には、被告人が考えたとおり、Bが右居室から廊下に出ようとしたのは、被告人がラシャ鋏を持ち出したのを見て逃げ出したことによるものであることを窺わせる形跡もないわけではないが、仮にそうであるとしても、被告人のBに対する右所為がなされた当時のその場の状況が前記のとおりである以上、被告人の右所為は、未だ、防衛行為としての相当性を欠くに至ったとはいえないというべきであり、他に右認定、判断を覆すに足りる証拠はない。

二  Aに対する殺人の所為についての弁護人の主張に対する判断

1  弁護人は、被告人の判示第一のAに対する殺人の所為は正当防衛ないし少なくとも過剰防衛である旨主張する。

2  前掲の関係各証拠によると、被告人のAに対する判示第一の所為に関しては、Bに対する殺人未遂についての前掲無罪理由の部分で掲記した事実関係に加え、判示第一のとおり、被告人は、BとD方居室前入口付近の廊下にいたその仲間の合計四人のパキスタン人を撃退した後、直ぐさま、同僚のDのことが気になって後ろを振り返ったところ、背後から同人に左手を捩上げられて少し前屈みの格好になっていたAを認め、同人を殺害しようと決意し、左腕を額の前に挙げた形の防御姿勢を取りながら、やや前屈みの格好で右手に持っていたラシャ鋏で同人の左上腹部、左胸部及び頸部付近を三回程続けざまに突き刺し、Dの制止により、一旦は、その場から離れ、同従業員寮二階の廊下から階段に通じる格好になっている隣室八畳間付近までBらの様子を見に行って戻った際、左目の上から出血していることに気付いて、再び激昂し、同居室のベッド上に顔面部を左横向きにしたほぼ仰向けの姿勢で倒れたまま全く動かないAの右頸部を逆手に持ったラシャ鋏で二回程突き刺したことが認められ、このような犯行の態様と状況によると、被告人の右所為のうち、死亡の結果を惹起したと認められる最初の左胸部等に対する突刺行為については、過剰防衛の成否が問題となる余地はあるものの、正当防衛が成立するとは到底考えられず、また、その後になされた右頸部に対する突刺行為に至っては、全く防衛の意思を欠き、およそ防衛行為とは無縁の行為であって、このような被告人のAに対する殺人行為について正当防衛が成立するとする弁護人の主張は採用しない。

3  また、被告人の右行為について過剰防衛を主張する点も、その主張自体刑事訴訟法三三五条二項に該当する事項でないばかりでなく、本件殺人では、過剰防衛の成立それ自体についても種々の問題点があると考えられ、前記認定の事実関係に本件殺人に顕れたその他の諸事情に照らすと、仮に過剰防衛が成立するとしても、刑の免除をすべき事案でないことはもちろん、法律上の刑の減軽をなすべき必要性も認められないところであるから、この点、過剰防衛による刑の免除又は減軽に値するとする弁護人の主張は採用しない。

(法令の適用)

被告人の判示第一のAに対する所為は刑法一九九条に、判示第二の所為は平成元年法律第七九号附則一二項により同法による改正前の出入国管理及び難民認定法七〇条五号にそれぞれ該当するところ、各所定刑中、判示第一の罪については有期懲役刑を、判示第二の罪については懲役刑をそれぞれ選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第一の罪の刑に同法四七条ただし書の制限に従って法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中八〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予することとし、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の事情)

本件は、フィリピン人の被告人が昭和六三年八月四日から平成二年五月一一日まで本邦に不法残留するとともに、翌一二日午前二時過ぎころ、同僚の居室で同僚と雑談中、喧嘩の仕返しのために仲間四人を連れて襲撃に来たパキスタン人の被害者を同居室内で殺害したものであるが、被告人の本件各犯行のうち、被害者を殺害した所為は、被害者の仲間が被告人の反撃にあって一名が負傷し、それを助けながらその仲間がいずれもその場から退散した後に、同僚の反撃に会って、判示第一のとおり、背後から左手を後ろ手に捩上げられて少し前屈みになっている被害者の身体の枢要部を目がけて三回程続けざまに突き刺し、同僚の制止によってはじめてその突刺行為を中止し、その後、自分の負傷に気付いて再び激昂し、その場のベッドの上で瀕死の重傷を負って死線をさ迷っていたか、あるいは既に死亡していた被害者の右頸部を逆手に持ったラシャ鋏で二回程を突き刺したもので、そのうち、死亡の結果を惹起したと認められる最初の左胸部等に対する突刺行為については、前記のとおり、防衛の程度を越えた過剰防衛行為の成否が問題となる余地はあるものの、後になされた右頸部に対する突刺行為は、およそ防衛行為とは無縁の、単なる殺人行為に過ぎないものであって、たとえ、被害者がどんなに悪くとも、被告人がその点についてそれなりの責任を負わなければならないことは当然であり、更に、被告人に対しては、比較的長期の期間に亙る不法残留の責任も問わなければならないところである。

ところで、本件殺人の被害者が棒のような凶器を所持し、その仲間のうち、二名も箒やモップを折って棒状にしたモップの柄の部分を所持して、通常であれば、多くの人が寝静まっている午前二時過ぎという深夜に、突然、多数で襲撃をかけ、少なくとも、被害者ともう一人が室内に侵入して被告人らを殴打する等の攻撃を加えた被害者らの所為は、言語道断であって、これに反撃を加える行為に出た被告人の所為は、たとえ、被害者らに対し、極めて強い殺意を抱き、人を容易に殺傷し得る刃体の長さ約一〇・五センチメートルのラシャ鋏という凶器を持ち出して応対したものであるとしても、同情の余地は大きく、その惹起した結果に対し、必ずしも、強い非難を加えることはできないといわなければならず、被告人には、前科、前歴もなく、本件各犯行を深く反省し、判示第一の所為について被告人と被害者の仲間の一部の者との間で互いに宥恕し合い、被害者に対し、冥福を祈念する趣旨の示談が成立しており、また、被告人は、これまで一応真面目に稼働していたなど被告人に有利に斟酌すべき一般情状や被告人が判示第一の所為に関連する被害者らの襲撃等により全治まで約一〇日間を要する傷害を負ったことをも併せ考え、被告人に対し、主文のとおり量刑し、主文掲記の期間その刑の執行を猶予することとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 円井義弘 裁判官 大渕敏和 清水研一)

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